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バラの歴史

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2 西アジアからヨーロッパへ、バラの大移動

 ヨーロッパにバラの栽培技術が大々的に持ち込まれた時期は二度あると言われています。
 

 最初は7世紀から8世紀にかけて、イスラム教勢力がヨーロッパに侵攻した時。
 

 この時は北アフリカのモロッコに香料バラの大きな産地が出来、モロッコからスペインに攻め上ったイスラム教徒と共にバラ栽培技術も北上して行ったのです。
 

 現在でもモロッコのケアル・ムゴナは「バラの谷」と呼ばれ、世界四大バラの生産地のひとつに数えられています。
 

 二度目は逆にキリスト教徒の十字軍がヨーロッパからアジアに遠征した13世紀です。
 

 帰国の途についた十字軍の兵士たちが、栽培技術をフランスに持ち帰り、南仏のグラースに香りバラの大生産地ができました。
 

 グラースは香水の都として有名ですね。


 もちろんそれ以前にもバラはヨーロッパ人に愛されていました。

 

 アレキサンダー大王の東方遠征(紀元前4世紀)で東西の文化が交流し、たくさんの植物と一緒にバラもギリシャ・エジプト世界に紹介されたのです。
 クレオパトラがバラ好きだという話も有名ですね。


 それにもましてバラ好きで知られるのがローマ人です。
北アフリカから小アジアにまで広がる大帝国を築いたローマは、支配下にあったトルコから大量のバラを運ばせていたのです。

 

 バラの花びらを部屋いっぱいに敷き詰めたり、バラ風呂に入ったり、ローマ人のバラへの熱中ぶりを物語る絵画がたくさん残されています。
 

 あの暴君ネロもバラを熱愛し、自分のバラ庭園を作らせ、バラに囲まれて過ごしたそうです。
 

 バラは力のある人間だけが手に入れられる王者の花だったのです。


 こうして、香料としてだけでなく花の美しさも愛されるようになったバラは、ローマ帝国滅亡後も中世ヨーロッパで盛んに栽培されるようになりました。

 

 バラ栽培では後進国だったのに、他のどの国よりもバラがブームになったのがイギリスです。
 

 家紋にバラを使う貴族も多く、ランカスター家とヨーク家がイギリス王位の継承権を争った戦争は、両家の家紋がそれぞれ赤いバラと白いバラだったことからバラ戦争(1455~1485)と呼ばれています。
 

 そして闘いが終結してヘンリー7世のテューダー王朝が開かれたときに、赤と白のバラを重ね合わせた「テューダー・ローズ」、現在のイギリス王室の家紋が作られたのです。

 
 
●新しいバラの誕生●


 古代から中世までヨーロッパで栽培されていたバラをオールドローズと言います。

 

 主な品種は、ヨーロッパ南部や西アジアが起原の「ガリカ」、西アジア原産の「ダマスク」、ヨーロッパ原産の「アルバ」、オランダで発達した「センティフォーリア」の4品種。
 

 どれもカップ状にたくさんの花びらが集まるロゼッタ咲きで、一年に一度、春に豊かな香りの花を咲かせました。
そのオールドローズに、剣弁高芯や四季咲きや房咲き、つる性など、現代バラの特性を与えたのが、18世紀後半に中国や日本から持ちこまれたバラたちでした。

 15世紀半ばから17世紀半ばにかけての大航海時代、ヨーロッパからアジアへ到達する新航路が次々と発見され、列強各国は競って東西の交易と植民地経営に乗り出しました。


 東洋のバラがヨーロッパに紹介されることになったのも必然の流れでした。

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